1998年2月に神戸で出会ったパグ犬は、以来、いつも家族のそばに控えていた。そう、控えていたという表現が正しい。途中、何度か「家出」をしたことがあったけれど、いろいろな方の協力もあってその都度、戻ってきてくれた。最初にいなくなった時には、「もう会えないのか・・・、寂しいな」と思いながら桜新町の駅前を歩いていて、電柱の陰から出てきたところを見つけたのを覚えている。
とはいえ、1999年に生まれた長男(人間)のために、その存在感が一気に低下、すっかり二の次になってしまったのは彼(犬)にとっては残念なことだったに違いない。寝床は屋外に追いやられ、散歩以外はあまりかまってもらえなくなったのだから。
そして2010年7月、老犬はこの世から去って行った。実際にいなくなってしまうと、飼い犬のために普段の生活に組み込まれているさまざまなルーティン、散歩や必要な物資の調達なども同時に必要なくなるのだが、その穴のあいた感じ(喪失感)と、十分に可愛がってやれなかった、という罪悪感みたいなものがもたらす何ともいえない感情に、わたしは予想以上に当惑させられることになった。
亡くなる直前に気付いたのは、犬のにおいが薄くなっていること。元気な時には文字通り獣の持つにおいをその周囲に充満させていたのが、ほとんど感じられなくなっていた。やはり生きるということはエネルギーを消費、発散しているということで、とくに屋外で寝起きしてたからさまざまな微生物との関わり合いも多かったと思う。それが食べるエサの量もどんどん減っていって、動けなくなっていって、ろうそくの灯が消えるようにという感じ。最後は看取れなかったが、苦しんだ表情ではなかったのが、わたしにはせめてもの救いだった。
もう会えないのかよ、さびしいな、ホント。