indigenous people

クリント・イーストウッドが1972年に主演した映画「Joe Kidd」は日本語版だとなぜか「シノーラ」。彼の出演作にはよく同じようなシーンがあって、初対面の女子といきなりいい雰囲気になってキスしたり、深い関係を結んでしまう。本編とはまるで関わりのないことが多く、どうしてこんなシーンが差し挟まれているのか毎回理解に苦しむのだが、「シノーラ」にも同様のキスシーンがある。相手はなぜか敵役の恋人、しかも初対面で。件の女子は作品の後半にちょっと登場するだけで、あまり重きが置かれていないことは明らかだし、その彼女とのキス・シーンが後に何か重要な意味を持つことになるわけでもない。はたして、これはお約束みたいなことで、イーストウッドが出演するときの条件なのか?? ギャラをディスカウントする代わりに、女優とのラブ・シーンを入れるとかね。とはいえ、この映画はイーストウッドが設立したプロダクション「マルパソ」の製作だから、単に彼の趣味と考えるべきかも。そういえば、先日NHK BSで放送されていたイーストウッドの登山映画「アイガー・サンクション」でも、ちょっと無理のある設定のラブシーンがあって、それは途中で罠であることが判明するというオチがついているのだが・・・要は映画というものにはラブシーンを入れるべし、というのがマルパソ・プロの哲学なのだろう。

さて「シノーラ」は他のイーストウッド映画と共通の特徴を持っていて、それは先述のラブシーンだけでなく、抑圧されているマイノリティの権利をイーストウッドの活躍で取り戻す、といったお得意のパターンを踏襲している。製作された70年代という時代の空気なのか、メキシコ人についてはスペイン語をまくし立てる粗暴なキャラといういささか単純な設定だが、同じ人間としての感情の動きもきっちりトレースしているあたりは、マイノリティに対する愛情とでも言おうか、イーストウッド作品に共通するテーマみたいなものを感じた。そして特筆すべきはロバート・デュバルのスバラシさだろう、存在感ではイーストウッドをしのぐほど、髪型とかで。ほか敵役のキャラも立ちまくりで本当に楽しい作品に仕上がっている。ラロ・シフリンの音楽も秀逸だ、サントラ欲しい。

なぜか映画モードに突入してたので、だいぶ前に手に入れてずっとタンスの肥やしになってた「Missinng」を続けて見る。もちろんケイト・ブランシェットのファンとしては見逃せない主演作だろう(あとスパイダーマン・シリーズを撮る前のサム・ライミが監督した「ギフト」もすばらしい)。競演しているトミー・リー・ジョーンズは日本のTVCMの顔になりつつあるが、白人なのにネイティブ・アメリカンの世界に没入して家族を捨てた男を怪演している。それにしてもケイトのウェストの細さは尋常じゃない。

じつは見終わって気づいたのだが、適当に選んだ2作品がともに先住民について取り上げていた。「Missing」のほうは舞台設定が「シノーラ」よりもずっと昔なせいか、オカルト色が強く打ち出されていて、先住民であるネイティブ・アメリカンの世界が、あくまでも感情移入できない別の宇宙として位置づけられている。そして、そんなネイティブ・アメリカンの呪術をあやつる輩に長女を誘拐され、頼る人も殺されてしまったケイトが、幼い次女とかつて自分を捨てた父親(トミー)と一緒になって娘を救出しようと繰り広げる道中が描かれる。最初は母親と娘(父親不在)、成長した娘と父親(母親不在)といったアンバランスさが彼らの関係にビミョウな影を落としている。しかし、ケイトの小さな娘とケイトの父親、孫娘と祖父の自然な結びつきが出来上がっていくにつれ、かつて自分を捨てた父親との葛藤もしだいになくなっていくという過程が、追跡劇のなかにオブリガートのように織り込まれていて、この映画に深みを与えている。

最終的にメキシコ人たちと相互理解に達したイーストウッドの「シノーラ」と、最後までネイティブ・アメリカンと対峙し、結果的に父親を失う「Missing」、という対照的な結末ながら、どちらもアメリカのだし汁みたいな映画だと思った。

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