impressed

今月はいつもより多く読んだような気がする。気になったところ抜書き。

港千尋 「書物の変」 グーグルベルグの時代 (せりか書房)

・・・書物は現在すすんでいる高度情報化によって、第二のグーテンベルグ革命とすら言われるような変化の真っ只中にある。世界中の代表的な図書館が蔵書の電子化を行い、これを逐次インターネット上で公開している。それは俗に「ライブラリー2.0」と呼ばれるくらいの規模と速度で展開し、世界に数冊しかないような資料でも自宅に居ながらにして閲覧することも可能になりつつある。
 驚くべき時代と言うほかないが、それは図書館のサービスが進化したというような単純なことではないだろう。むしろわたしたちが生きる時代そのものが、図書館化しつつあると考えるべきである。一例をあげれば、「検索」がそうである。この「特殊図書館的」な機能に、いまや社会全体が依存するまでになっている。いまでは「検索」という行為そのものが検索されモニタリングされているのだから、社会全体がメタ図書館化していると言っても過言ではないだろう。
 それでもわたしは図書館に歩いてゆき、夕暮れまでそこで過ごし、帰りにパブに寄ることをやめはしない。世界は複雑であり、人生には検索できないことがますます多い。探しもとめている答えが、偶然となりに座った人が開いたページのなかに書かれていることも、ないではない。

岸田秀 対談集 「唯幻論論」 (青土社)

 僕はいつも、人間は本能が壊れた動物であるといっているわけですが、本能という行動規範が壊れてしまったので、人間はその代わりに自我という規範をつくった。本能という行動規範の代りに、自分は男であるとか、女であるとか、社長であるとか、生徒であるとか、先生であるとか、そういう自己規定によって自分の行動を決定するという形にしたわけです。
 ところが、自我というものをつくってみると自我ほどみじめで卑小なものはない。全然ほかとはつながっていない。この広い宇宙の中でぽつんと孤立した存在でしかない。そういう卑小にしてみじめな自我という存在がこの宇宙の中でただ浮遊しているという状態はだれしも耐えがたいものであって、その孤立した卑小な自我を超越的な価値につなげることによって自我の安定を得たいという欲望が必然的に出てくる

  • 池谷孝司 「死刑でいいです」 孤立が生んだ二つの殺人 (共同通信社)
  • 松岡正剛 エバレット・ブラウン 「日本力」 (PARCO出版)
  • 吉行淳之介 篠山紀信 「ヴェニス 光と影」 (魁星出版)

sayonara

いまは自転車のほうがはるかに安心して乗れるし、環境や身体にもいい、いろいろ考えてSR400は手放すことにした。

最近はすっかりご無沙汰のSR。去年1年間で乗った回数は片手に満たなかったんじゃなかろうか。乗りたい気持はあるのだけれど、フロントフォークのオイル交換とかメンテナンスするにも手間とお金がかかる。アジアのほかの国ではもっとボロボロのバイクでも平気で使用されているし、そういうメンテをしなくても乗れなくはないが、走行に不安を抱えたまま長い距離を走ったり、100キロ以上でぶっ飛ばすのはそろそろ憚られる年齢と立場になった。そして気づけば車検の時期・・・。きょう最後のライドと思って久しぶりにエンジンをかけてみた。もう何ヶ月も乗ってないが、5回くらいキックしたらきちんと始動。近所を流してみたが、やはり自転車とも自動車とも違う気持のよさがある。天気も良かったし。あー何だかもったいないな

午後は次男をサッカー試合に送り届ける。長男のサッカーを見た後だと、その差に愕然となる。それはそれでかわいいんだけど。

Kai on the pitch
Kai

精神の生活

キムヨナと浅田真央の対決は日本中の注目を集め、とても盛り上がった。フィギュアスケートでは、審査員がジャンプの回転数、高さ、そしてスピンの回転速度などを少し離れた場所から目視確認して採点している。スキーのジャンプ競技なども同様に距離と飛んでるときのかっこう(姿勢)が判断の基準となっている。これは始まったころのオリンピックから徐々にさまざまなパラメータが整備されて、ジャッジのブレを少なくして、選手のパフォーマンスの真実の姿を取り出そうという試みであり、より普遍的な定量化を実現するためにほかならない。しかし、こうしたパラメータは時間とともに変化し、そしてもっと根本的なルール改正などもときに行われる。たとえばジャンプの日本代表が北欧などヨーロッパ勢に完全に勝利してしまうと、しばらくしてスキー板の規格そのものが変更されてしまったりする。(1998年の長野オリンピック直後に施行された「146%ルール」)

この場合、その競技にコミットの度合いが高い団体の意向が反映されていることは明らかである。これはオリンピックが単なるスポーツ大会ではなく、選手のスポンサーなどを含めたメーカー、企業などにとっても大きな影響力を持つイベントであることを思い出させてくれる。だから、キムヨナが2年前からカナダでトレーニングを行って、現地の業界関係者とのネットワーク作りも含めた総合的な取り組みをしてきたことを考えれば、彼女の金メダルは受益者の数からいっても当然の結果なのだ。実際、世界最高のジャンプを成功させても得点自体はそれほど高くないことは何回も報道されてた。

こういうオリンピック対策はいわずもがなだが、多くの日本人(スポンサーなどサポート側にいる比較的高齢でキャリアもあるが国際的な発言力、影響力をほとんど持たないマネージメント)のメンタリティにはまったくフィットしない。じゃなきゃ金メダルを獲ったあとでルールを変更されてしまうような失態が起こるはずがない。彼らが好むのはTVで観戦する多くの日本人と同じ一念発起、根性、不屈の精神など選手個人の精神力の発現での金メダル獲得である。ルールや審査の基準が変っても、始まる前は日本代表がたくさん金メダルをもらえるような報道が毎回のように繰り返される。だから年齢を重ねて何度もオリンピックを見ることになると、そういった報道がアホらしく見えてくる。むしろ協会側を動かして日本人選手に有利なルール変更をさせるくらいの政治力を顕在化させるような媒体になってほしいものだ。

常套句、決まり文句、因習的で規格にはまった言い方や行動様式というのには、現実から我々を守るという社会的に認められている機能がある。すなわち、それらによって現実の出来事が生じているときに思考が注意を向けないようになるのである。もし我々がいつ何時でもこうした出来事に注意を向けるように求められたら、我々はほどなく疲れ切って消耗してしまうだろう。

 佐藤和夫訳、ハンナ・アーレント著 「精神の生活」 岩波書店

フムフム、言われれば、たしかにそういう気もする。ただ、そういったコミュニケーションは長い時間をかけて固まってきたもの。とくに日本語の決まり文句、クリシェには短い表現で複数の人と豊かなイメージを共有できる実力がある。源氏物語で登場人物が詠む歌などは正直私にはハイブロウすぎてついていけないが、石井威望が岸田秀との対談冒頭で述べて印象的だったのは

日本人の対話は結局、連歌(連句)になると思う

 唯幻論論 岸田秀対談集 青土社

という言葉。ただ注意しなければいけないのは、これがいいときの日本人メンタリティなのだ。つまり競争の少ない世界で技術的に先端を走ってる場合とかに限られる。ひとたび巨大ビジネスが絡んでくると、なぜか途端に総合的な観察、判断を停止して、せまいところに落ち込んでいくイメージがある。これをよくいえば技を極める、になるのだろう。だからオリンピックが始まると日本人は思考停止する。スポーツの祭典としてのオリンピックを見ているだけでは、また、日本人選手個人の不断の努力に感じ入ってるばかりでは金メダルまでの距離はいつまでたっても短くならないと思う。

サッカー好きの私としては6月に控える南アフリカ大会に参加する日本代表が、キム真央対決ほどの熱狂を興すことができるかかなり心配だ、ベスト4はともかくとして。