


帰り道にシャケ落ちてたと思ったらただのヒビ割れだった

Bent my ear to hear the tune and closed my eyes to see
Persona (1966) – dir. Ingmar Bergman
“自分の表現を持たない人にも、Tumblr は優しい。”
? 自分の表現,他人の表現 – 準二級.jp (via dara) (via noplans) (via freedomcat) (via jun69) (via petapeta) (via suyhnc) (via nemoi) (via gkojay) (via jun26) (via tmplcppl) (via dukkha) (via namimory) (via gousouskmz) (via zaiga)
“Twitterを『全世界公開型 井戸端会議』とすると、
Tumblrは『全世界公開型 僕の私の恥かしいスクラップブック』である。”? ラスト肥後モッコリーナ?? Tumblrの妖しい魅力 (via petapeta) (via flatmountain) (via cubeon) (via kyohei28) (via rosarosa) (via gkojax) (via konishiroku) (via rosarosa-over100notes) (via gkojax)
“いつも食卓から「牛乳!」と偉そうに叫んでいる四歳の息子を、 所用で半日ほど友人宅に預けた。 帰ってきた彼は 「忙しいところすみませんが、牛乳下さい」と言うようになっていた。”
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母子手帳にある1歳の成長記録のチェックリストに、「音楽に合わせて、からだを楽しそうに動かしますか(はい いいえ)」という項目がある。愚息は、まだ再現性のあるような動きを見せることはないけれど、楽しそうな様子は見受けられる。ダンスとは、かくもprimitiveな技芸なのであるらしい。原始、太古の森で、500万年くらい前の俺の祖父の祖父の祖父が、川のせせらぎに、風のざわめきに、迫り来る雷鳴に、からだをくねらせ、こぶしを振り上げ、足を踏み鳴らした。音楽が先行してそこに鳴っていて、後からダンスがはじまったのか、ダンスがはじまったから、そこで鳴っていた音が音楽と呼ばれるようになった、ということはなかったか、あったかもしれない、なかったかもしれない。
“目の見えない方が「写ルンです」を愛用している話を聞いたことがある。
「目が見えないのになぜ?」と思ったが、
旅行から帰ってきた時に、自分が撮影した写真を家族に見せたいのだという。
「へーこんなところに行ってきたんだ。」「キレイなところだね」など
コミュニケーションツールとして使っているのだそうだ。
また、カメラならばどれでもいいという分けではない。
「写ルンです」はパンフォーカスというレンズの被写界深度を利用して
1m〜∞までピントがあったように撮影できるが、
これにより被写体を目視できなくとも
撮影したい”方向”にカメラを向けるだけで撮影できる。
オートフォーカス搭載カメラの場合、
撮影したい被写体に確実にカメラを向けないとフォーカスが働かず、
またそうしないとシャッターが下りないことがある。
更に、「写ルンです」であれば、
フィルム巻上げが「ジージージー ガシャッ」と音をたて、
目が見えなくともハッキリとわかることもポイントだ。”? 2008-12-23 – workshop PCエンジンおしゃれ計画 (via mcsgsym, dannnao) (via gkojay) (via tokunoriben) (via kiri2) (via peketamin) (via rosarosa-over100notes)
目覚めた時には既に羽田空港に着陸していた。乗客のおそらく半数以上がいなくなっている。スマホが手元にないことに気付いたが、たぶん機内のどこかにあるからいずれ見つかることだろうと冷静に(?)判断し、そのまま飛行機を出る。もはや数え切れないほどスマホを紛失しているため、この程度で焦ったりはしない。スマホがないとそこそこ不便ではあるがほどほどになんとかなる、ということは十分に心得ている。軽度の二日酔いでぼーっとしながら電車を乗り継ぎ、自宅に帰り着いた。
ポストを覗くと、メルカリで購入した本、そしてその下には恋人に預けていた合鍵が入っていた。わたしが不在の間に自宅にやって来て、荷物を引き取って出ていったようである。デスクの上には1枚の置き手紙が残されていた。彼から送られた最後のメッセージに目を通すことに、怖さがないわけではなかった。別れの言葉はLINEで送られてきていたし、大阪へ行く夜行バスに乗る8月24日に出勤する彼を見送ったのを最後に、彼と顔を合わせることなく2人の交際関係は終わってしまったから。
だが心配は杞憂だった。書き綴られていたのは、彼がどれだけわたしのことを大好きだったかということ、本当はずっと一緒にいたいと思っていたこと、しかしそれでも、徐々に関係にヒビが入り始めていることを感じ、嫌いになってしまう前に別れる決断をしたこと、顔を合わせてしまうと決意が揺らいでしまいそうになるから、会うことなく別れを告げ、荷物を引き取っていったことだった。
どうしてこう上手くいかなくなってしまったのかと考えてももう遅い。もしあの時こうしていればと、あり得たかもしれない過去の想像をしてみても意味はない。これが本当に最後なんだという実感が湧いてきて、過剰に感傷的になり、感情のままに書き綴ってしまっただけとも思える。2年か3年もすれば、彼の横を別の誰かが占めている想像をするのも難しくはない。どうせ東京と大阪で400km以上離れて、互いに相手のことなんかちっとも思い出したりすることなく生きていくことになる。自分にそう言い聞かせて、手紙をしまった。
(2025/09/14)