rule

夕方、漫然とTVを眺めて眠そうだった次男を連れ出すと、長男と遊びに来ていた長男の同級生が一緒についてきた。近所の公園で、遊具を使ってコースを決め、わたしが腕時計付属のストップウォッチを使い、何秒でクリアできるかという遊びに熱中。子どもたちは自分たちでルールを決めることが好きなんだよなあ。そのうち、さまざまなコースを考え出してはタイムを競った。

そして、場所を移動してこんどは鬼ごっこ。これも、独自のルールを決めると、夢中で遊ぶ。同級生のお母さんが迎えに来て終了。子どもたちは本当に遊びの天才なのだ、遊びが仕事で仕事が遊びになれば楽しそう。

次男の自転車の練習に付き合って、軽くジョギングしてみたら気持ちよかったので、大晦日に梯子から落ちて腰を打って以来、久しぶりにロードバイクに乗ってみた。予想通り少し乗っただけで腰のあたりに違和感を感じたけれど、やはり気持ちいい。いったいいつになったら、モリモリ乗れるようになるのだろうか。

being religious

「氷点」で知られる三浦綾子の「塩狩峠」、彼女の小説をはじめて読んだ。NHKのドキュメンタリー「あの人に会いたい」という番組で彼女のインタビューを偶然見て、興味を覚えたのだ。簡単にいえばキリスト教をめぐるストーリー、世渡りは下手だけど素敵な人がたくさん出てくるので、逆にラストへ向かう不穏な空気感は何ともいえず、フラナリー・オコナーを思い出させる。著者自身が成人してから受洗しているせいか、宗教的なバックボーンを持たない私にはとても共感できる部分が多い、三浦の生き様があらかじめインプットされていたせいもあるのだろう。でも主人公やその家族があまりにもあっけなく死んでしまうところは物足りなかった。その突然の死が主人公や、まわりの人々をキリスト教へと近づけたとしても。

このところ親鸞についていろいろ読んでいたので、あたまはすっかり南無阿弥陀仏モード。親鸞の教えは宗教というよりも、もはや「思想」といったほうがいい、と吉本隆明かだれかが書いていたっけ。たしかに「塩狩峠」を読みながら、あーこれが宗教なんだよなあと思った。それにしても中沢新一の「三位一体モデル」とこの「塩狩峠」が同じ宗教について書かれた本とはにわかに信じがたい。それがキリスト教の懐の深さと言われても、いまのわたしにはイエスより断然親鸞がフィットする。

塩狩峠

午後、次男とホームセンター。犬の新しい首輪とリード、ドライフード、それとずっと欲しかった木炭着火ツール(写真下、1380円)を購入する。

firemaker

the great gatsby

ヘンリー・ミラーを読んでみたかったのだが、行きつけの図書館にはちょうどよいポータブルな「南回帰線」が見当たらず、集英社の分厚い本を借り出した。本の厚さ、重量に反比例して携帯性が当然著しく低下するため、読むスピードが落ち、結局冒頭に収録されていた「グレート・ギャッツビー」しか読まずに返却期限が来てしまった。

ギャッツビーは野崎孝という大御所の翻訳なのだが、ちょっと辛かったなあ。とくにギャッツビーが死ぬシーンは、村上春樹の翻訳を立ち読みして、ようやく理解できた。これだったらオリジナルの英語を読んだほうが良いような気がした。

その点、フランス語はまったく分からないので、妻の実家にあったサンテグジュペリ「夜間飛行」は、これまたアンティークな堀口大學訳だったが、あきらめて読めた。違う翻訳で読んだらきっと印象が変わるだろうなあと思いつつ。小金井図書館に全集があるようだ。

きょうは山田風太郎、山本周五郎、三浦綾子、吉本隆明、阿刀田高を借りた。

Amazon.co.jp: アメリカ〈2〉/集英社ギャラリー「世界の文学」〈17〉

lost dog

数日前から犬が行方不明になった。この寒空の下、家族はとても心配していた。そしてきょう妻が地元の動物愛護センターに電話で尋ねてみたところ、該当すると思われる犬が一般の家庭で保護されているとの情報あり。さっそく連絡をとって、特徴を訊くとぴったりうちの犬。すぐに引き取りに行き、無事再会できた。

前にも何度か家出して、そのたびにあ?もう会えないのか?とさびしい気持ちになったけれど、いつも戻ってきた。よほど縁があるのだろう。

ladder

大晦日の落下で年越しはすっかり寝床の中、次男とよく休めた。腰の痛みはそれなりに消えつつあるけれど、何気ない姿勢、たとえば歯磨きとか、手洗いとかのときに鋭い痛みが走る。あといすに腰掛けるときとか、立ち上がるときなど。左ひじもまっすぐに伸ばすと痛む。

渋谷のシネマライズは好きな映画館で、映画は好きだけどそれほどのめりこんでいるわけではない私がこれまで金を払って2回見た映画がいままで2本あって、そのうちの一つが「アンダーグラウンド」。ものすごい衝撃は生涯忘れられない。(もうひとつはちょっと恥ずかしいが「ポンヌフの恋人」。カラックスはどうしているのだろう・・・)

そのクストリッツァ監督が2004年に発表した「ライフ・イズ・ミラクル」が2007年最初に観た映画(DVD)となった。「アンダーグランウンド」と同じく民族紛争がテーマだけれど、アプローチはずっとマイルドでこじんまりしている。しかし素敵で美しい。音楽、登場人物、ベッドで空を飛ぶシーン、やたらと割れるグラス。すべてにバランスがとれた、クリスタルガラスのような工芸品の域に達している。こういう映画だったらシリーズで48作品あってもいい。

下は大晦日に落下のショックでひん曲がった梯子

ladder

fall

a surfer on the road

大晦日のきょうは仕事が休みだったので、午前中は子どもたちをつれて小金井公園、午後は大掃除を手伝っていた。はしごをかけて高窓を外から拭いていたのだが、そのはしごがバランスを崩して横倒しになって3メートルくらいの高さから落下、腰と左ひじ、頭を打撲してしまった。あー痛かった。落ちるときはびっくりしたし、あせったが何もできなかった、情けない。横になってしばらく休んでいたけれど、左側の腰と左ひじが腫れてる。

ことしは新年早々オートバイで転倒して救急車に運ばれた。きょうも家族は心配して救急車を呼ぼうとしたけれど、それだけは止めた。自転車を購入してからというもの、例年に比べよく雨が降り、とくに私の勤務日には必ずといっていいほど降水確率が30パーセント以上ある。そして、きょうの落下。これじゃ元旦の自転車通勤はあきらめざるを得ない。あっ、そういえば昨日仕事からの帰り道に麹町警察署前でパンクしたなあ。寒風吹きすさぶ中、初のチューブ交換だったので30分くらいかかってしまった。おかげで再び走り出そうとしたとき、体はすっかり冷え切っていたのだ・・・見えざる何かがわたしに二輪車に乗るなと言っている。

Kanji

最近の長男のブームは漢字。毎日なにかしら新しい字を覚えては嬉々としている。怒られている最中でも右手は空中で書き順をなぞっていたりする、それでよけいに叱ったり・・・。吉祥寺でX-masコンサートを楽しんでから、帰りに小学生向け国語辞典(実母依頼)と「小学生のための漢字をおぼえる辞典」を購入。後者は五味太郎のイラストつきで、漢字のカタログといったところ。カブトムシのかわりに漢字が並んでいる。

food for life

おとといの夜、子どもと一緒に寝入ってしまい、起きてみると発熱しているのかモノすごい寒気に襲われた。ほとんど眠れず、やっとウトウトしてきたところでタイムリミット。起きるのがほんとうにつらかった。熱は下がっていたが、いったい何だったんだろう。3日連続で自転車通勤したのが原因なのだろうか(自転車熱?)。それとも、アミノバイタル・プロを飲んだせいか・・・?それともいま流行のノロ・ウィルス?発熱だけだったので、いまはもうなんともない。

岡部伊都子「伊都子の食卓」藤原書店、これも図書館の新着コーナーにあった。以前、世田谷図書館で全集のひとつを借り出したことがあったけど、あまり読まなかった気がする。著者のことを知ったのは松浦弥太郎さんのCOW BOOKSだった。名前だけチェックして図書館で借りた覚えあり。最近になって、あれっ名前なんだっけ・・・思い出したいのだけれど、出てこない・・・そんな状態が続いていたところに、新着コーナーに彼女の名前を発見したときは嬉しかった。ちゃんと読みたかったんだよなあ?という気持ちで読むと、どんどん入ってくる。「本に読み時あり」(by 池澤夏樹)とは、まさに至言。

しかしこの本、いまの私にはかろうじて理解できるけれど、あと何年かして若い人たちが手にしたとき、こりゃいったいどこ(いつ)の話だ、ということになりかねないんじゃなかろうか・・・と心配になる。タイトルどおり食事のことがメインではあるが、単に料理や素材について語られているわけではない。その素材がどんな風に自分の食卓までやってきたのか、そしてその素材にまつわる伊都子の思い出、人生に対する考え方、環境問題など、スルドイ視点というよりはごくごく真っ当な視点が織り込まれている。しかし、茂木健一郎の言う「スカな現代」にあって、この本に出てくるような日常的食文化は、実はどんどん失われて、もう2度と体験することができないところまでいっていると思う。そして、もっと大きな問題は多くの人がそのことに気づいていない、もしくは「分かっちゃいるけど止められない」ということかもしれない。

たとえば、岡部はすてきな食材が手に入って、それで拵えた料理を食すときに「よばれる」という表現をする。「他所様のご馳走におよばれ」という言い回しは、わたしの母や祖母も言っていたような気もするが、自分で作った料理に「よばれる」とはいったいどういうことだ?どうして「よばれる」のか、いったい誰が「よぶ」のか?

そんな小学生のような突っ込みは、この本の至るところで可能だが、彼女のそんな表現に「何か」を感じることができないなら、その時点でこの本を読むのは止めたほうがいい。かといって、たとえビンビン感じながら読み進めたとしても、現代都市で暮らす私たちが、利便性と引き換えに失ってきたものがどれだけ大きく、かけがえのないものなのかを思い知らされ愕然としてしまうだけなのだが。

きょうの職場ではLeon RussellとT-Bone Walkerを流しっぱなしにしていた。偶然ピックアップした2枚だが、繰り返し聴いても飽きのこない、逆に味わいの増してくる絶妙の組み合わせ。

Leon T-Bone

qualia

茂木健一郎がホストをつとめるNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」は比較的よく見ていて、印象に残る言葉がよく放送されている。先日は彼の最新刊「やわらか脳」が図書館の新着棚に並んでいたので読んでみた。以前にも何冊か読んだことがあって、それは雑誌の連載をまとめたものだったのに対して、これは本人のウェブログをまとめたものとのこと。

ちょっと意外な感じで、怒りまくっているケンモギがいる。現代のアートに対して、文学、社会に対して。それがけっこう面白い、痛快。八百屋での会話、近所の公園での発見など、どこにでもある状況に大いなる鉱脈の発端を見出す感覚が、彼の批判する「スカな現代」にマッチしているのだろう。彼の本を読むたびに小林秀雄の講演を聴いてみたくなる。

茂木健一郎 クオリア日記