松岡正剛の書いた平凡社新書「白川静」より
まとめていえば、日本は「歌」によって国語をつくったのでした。そう、断言してもいいとおもいます。いやいや、国語だけではないともいいたい。今日、伝統文化とよばれている多くの日本文化の特質の大半が、ここから派生したというべきでしょう。 <中略> 日本の『万葉集』にはじまった「歌」の数々は、また「歌」が秘めた作用と技法と含意と思想は、その後の日本文化のいわばOS(オペレーティング・システム)のような基盤となって、たとえば連歌を、たとえば能(謡曲)を、たとえば大和絵を、たとえば枯山水を、たとえば俳諧を、たとえば茶の湯を、たとえば浮世絵を生んでいったということになります。
なんておしゃれでハイブロウな文章だろう。自らを省みれば、連歌?能?大和絵?枯山水、あー、お庭のことね、俳諧って俳句と違うの?茶の湯、器回して。たしか雑誌「考える人」で内田樹がホスト役のインタビューコーナーにお茶の家元載ってたけどぜんぜん覚えてないや。浮世絵、どれも一緒に見える。・・・毎日Jerry GarciaとかChico Buarqueだのの細かい演奏の襞に分け入ってるけど、日本の伝統文化にはトンとご無沙汰というか、未開拓な分厚い地層がわたしのすぐ下に広がってるのね。私の中のOSはこういったカルチャーに最適化されてるわけだから、考えようによっちゃ備蓄量世界一、老後の楽しみ満載でもあるわけだ。しかし何で今の私にとってはあまり魅力的でないのかな伝統文化って。たぶん家元とか、世襲制とか、過去のシガラミ、閉鎖的な業界因習と、逆に個人の才能に頼らざるを得ないHRシステムの欠陥など、勝手に想像して嫌っているだけなのかもしれない。
それにしても「漢字は(日本の)国字だ」という考え方はステキ。白川静は間違いなく世界的な知の巨人のひとりであることが良く分かった。