ぼくが人生で最も衝撃を受けた本のひとつ。マジでおもろい。本書は、言語学者エヴェレットがアマゾンの少数民族ピダハンと暮らした約30年にも及ぶ生活録である。ピダハンの特徴は、まず「言語」にある。彼らの言葉の仕組みは常識を覆す。たとえば、ピダハンが使う言葉には「右/左」という概念がない。数や色の概念も、英語のように過去と未来を細かく区別する時制の体系もない。「すべての」や「それぞれの」に相当する語も、また唯一神的な「神」観念もない。彼らの言葉には、ぼくらが使う言語にある細かさが、ある側面では存在しないという。
そして、それらの言い回しや表現がないということは、そのことを詳細に意識したり、思考したりすることがほとんどできないことを意味するのだろう。数の概念がない彼らは、まずものの個数を数えることができない。1、2、みたいな数詞がなく、「多い/少ない」という相対的な評価ができるのみである。4つや5つを超えると、目の前にないものの正確な個数を覚えておくことすら難しくなる、とされる。
実はエヴェレットは、そんな彼らにキリスト教の宣教を試みる。信仰の素晴らしさ、それがもたらす幸福を説く。しかし、それもうまくいかなかった。むしろ幸せに生きる彼らに感化されたエヴェレットは、逆に無神論者になってしまう。「ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子どもたちと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ」(372頁)。彼らは生と死を並列に捉えており、仲間が死してもそれを自然に受け入れる。そして、漁、カヌー、笑い合い一つ一つを心の底から楽しむ。そんなピダハンには、クリスチャンが説く「天国」や、バラモンが説く「三世の存在・輪廻」は必要なかった。
たとえば、「過去」という観念があるから人は後悔し、「未来」という観念があるから人は不安になる。しかしピダハンは、遠い過去や未来を語る言葉をほとんど持たないので、まず未来への不安に苛まれることがない。思考をめぐらして未来に思いを馳せる、みたいなことがない。
エヴェレットはそこから、要らぬ概念や観念が人を不自由にしていることに気づいていったのだと、ぼくは読む。ピダハンは「見えないものを信じない」ので、神はそこに入ることができないのである(ただし、彼らは目撃された存在として精霊を信じる。現象として彼らは精霊を視認していると感じているので、精霊は信じているのだ)。
見えない神は信じないという非対称こそがエヴェレットの棄教の核心である。
またピダハンは、自分か、生きている誰かが実際に見聞きしたことしか語らない。だから彼らには創世神話がない。「昔むかし」で始まる物語がない。エヴェレットがイエスの話をすると、彼らは、お前はそいつに会ったのか、と聞き返す。会っていないなら、その話に意味はない。神が根づかないのは当然だった。この「直接体験の原則」を持つため、ピダハンは、数も色名も、遠い過去を語る時制も必要としない。ぜんぶ「今ここ」の経験をはみ出すからだ。ぼくらが「歴史」や「信仰」と呼ぶものは、目撃者のいない時間へ意味を伸ばす行為なのだと教えられる。
こうしたことを痛感したエヴェレットは、やがて信仰を手放す。
キリスト教の世界観よりももっと深い、根底的なところにある大切な何か。それをピダハンは確かに大事にしているのだ、と。
もちろん、ピダハンはキリスト教と自分たちを比較したことはなく、ただ「そのように生きている」だけである。
ピダハンは現実主義者の集団でもある。基本は目に見えるものだけを信じる。厳しい自然の中で生きているため、「頼れるものは自分だけだ」とも思っている。
一方で、いざという時の助け合いは「お互いさま」の思想を基盤とし、相互扶助に躊躇はない。困っている人を常に全力で助ける。互いに助け合っている。だから、彼らは強いつながりで結ばれる。そのためだろう。野生の中で常に死と隣り合わせに生きている彼らは、得も言われぬ幸福感に満ちている。
本書を読むと、以下のような問いが立ち上がってくる。
「言語はどこまで必要なものなのか?」
「宗教や神話は必要なのか?」
「直接、知覚していない情報にどこまで意味があるのか?」
「そもそも幸せとは何か?」
ピダハンが、いわゆる「正義」や「成功」といった観念に突き動かされている現代日本人を見たら、「この人たちは人生をムダにややこしくしている」と思うかもしれない。
また、メディアの情報に踊らされ、SNSの虜になっている人々の所業は「狂気の沙汰」に見えるかもしれない。みながみな似たような服を着て、金属の箱が10個くらい連結した監獄のような“電車”と呼ばれるものに運搬され、一つのコンクリートの箱の中(会社の社屋)に、毎日毎日、集まるのである。そして、板のような機械(パソコン)に向かって一日中カタカタしているのである。ピダハンなら、「この人たちは何に取り憑かれているのか?」と思うかもしれない。
現代社会がかかえる「余計な」複雑さ。その贅肉の「贅」性が鮮明化するのが本書である。というか、現代社会は「余計さ」が作り出したものでもある。人類に決定的に必要だったとは限らない。そのことを本書は考えさせてくれる。
言葉は怖い。言葉は人や集団を変える。主語が「私/あなた」のうちは、まだ多くの人は平静を保ちやすい。でも、主語が「われわれ/お前ら/奴ら」になっていくと途端に過激になり、「われわれ/奴ら」の境界線を強調して、自分にまつろわぬ者に排撃的になってしまう。これもある種の狂気だと言える。「われわれ/奴ら」で世界を切り分けないピダハンは、「われわれ」を起点に分断を作ることもしない。そんな彼らと比較すると、ぼくらが滑稽に思えてくる。
人生って、もっとシンプルでいいんだな。そんな安心感も得られる本だった。
『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』
ダニエル・L・エヴェレット(屋代通子訳)
みすず書房
ALT


