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“ラスト・サムライ(’03.12.6) 観る前は絶対何か勘違いしていると思っていたのだが、うれしい誤算であった。実にまっとうなできの映画である。滅びを知りつつ抗う、気高い男達。渡辺、真田の所作の美しさ。サムライ版「ダンス・ウィズ・ウルブズ」という評が言い得て妙だが、これまでインディアン(政治的に正しくない用語)以下だった訳か・・・。うっかり「キル・ビル」で感動したことを深く反省したものであった。
ところで、「Blood+」でも日本刀もどきが使用されているが、日本人のこの武器への愛、と言うか信仰は根深い。歴史研究家の鈴木眞哉氏は、「鉄砲と日本人」「刀と首取り」の両著作で、興味深い論考をしている。
日本刀は元もと合戦の最中、動けなくなった敵の首取り用に発達した武器で、戦闘に使われたことはほとんど無いというのだ(もちろん、喧嘩や果たし合いは別として)。戦国時代の資料で、戦場での負傷者の原因内訳を調べたところ、弓矢が4割、鉄砲と槍が2割ずつ、残り2割がその他もろもろという結果であった。刀傷にいたっては、全体の7パーセントにすぎず、城攻めの際に投石で負傷した者より少ないくらいだったという。つまり日本の合戦は昔から遠距離戦指向だったのであり、武士が「飛び道具は卑怯なり」などという精神性を持ったことは一度もなかったのである。
また、刀は意外と故障しやすい。日中戦争の際に軍刀の修理を請け負った軍属の証言によると、中子と柄の接続がすぐがたがたになるのだ。刀身と柄が別々になっているのは、斬りつけた際の衝撃を吸収するための日本刀独特の工夫であるが、実用上は、柄まで一体成形の洋剣の方が優れていると言わざるを得ない(もちろん、使用者の腕前にも、拵えの出来不出来にもよるだろうが)。刀が武士の魂などと言い出したのは平和な江戸時代のことであり、彼ら御家人が幕末の動乱期に何の役にも立たなかったのは周知の事実である。この辺はパオロ・マッツァリーノ「反社会学の不埒な研究報告」に詳しい。
忠義というのも、後に生まれた概念だ。もっとも武士の活躍した戦国時代は裏切り御免の時代であり、合戦の帰趨は一にも二にも敵将を寝返らせる調略にかかっていた。「勇敢な武士」というのは、「男らしいカウボーイ」とか「厳正な英国紳士」とかと同列の幻想にすぎない。おそらく、そうした共同幻想の集積が、文化とか民族とか伝統というものなのだろう。幸か不幸か、人間は、それらなしにはアイデンティティを構築できない。社会を営んでいくために、必要不可欠なものなのだ。
ただ私は、それが幻想であることには自覚的でありたい、と思う。”

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2010-06-23 (via gkojay)

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