“人をほめたら
同時にものを頼んではいけない。
ほめ言葉は無料でなければ
価値がない。”? マーク・トウェインの名言・格言集。トム・ソーヤー著者 | 癒しツアー | Page: 2 (via petapeta)
miamaimania:Arago House by John Lautner, 1977
@toromatasandboardski
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“あだ名は、レトリック現象の(そして、ことばのあやの)原始形態だと言っていい。人間は深い関心をいだいている対象に対して、とりわけ本名よりあだ名を使いたがる。これは不思議な現象ではないか。心から愛している対…”
“あだ名は、レトリック現象の(そして、ことばのあやの)原始形態だと言っていい。人間は深い関心をいだいている対象に対して、とりわけ本名よりあだ名を使いたがる。これは不思議な現象ではないか。心から愛している対象、心底から憎んでいる対象、気にかかる相手を名ざすとき、ふつうの表現よりもレトリカルな表現を使いたがる傾向がありはしないか。
赤頭巾のものがたりでは、何といっても彼女が主役であり、聞き手の関心をいちばん強く引きつける焦点である。だからこそ、彼女だけがあだ名で表現されていて、おばあさんも狼もふつうの名称で呼ばれているのだ、というのはうがちすぎだろうか。
あだ名そのものが即ことばのあやだと言うことはできない。その呼び名が創作され、まだ名づけの動機が生き生きと感じ取られる初期の段階にのみ、それはことばのあやなのだ。やがて周囲の人々が全員その呼び名を使いはじめ、通用するあだ名として定着してしまえば、もはやそれは、ほとんど本名並みの名称となる。ほとんどことばのあやではなくなる。”
– 佐藤信夫 「レトリック感覚」
“鷗外は、元来目だつレトリックをもちいる表現者ではない。たとえば、おそらく彼のもっともすぐれた文章のひとつであろう「澀江抽斎』をはじめからおわりまで読んでみても、目につくようなことばのあやはほとんど見いだ…”
“鷗外は、元来目だつレトリックをもちいる表現者ではない。たとえば、おそらく彼のもっともすぐれた文章のひとつであろう「澀江抽斎』をはじめからおわりまで読んでみても、目につくようなことばのあやはほとんど見いだせないかもしれない。一般論として、ものを書く人間の後期の文章においては比較的若いころの表現よりもことばのあやが少なくなるという傾向がありそうだ。若々しい気負いと派手ごのみが、次第に枯れて渋くなる、という説明は、常識的で、たぶん正しいだろう。”
– 佐藤信夫 「レトリック感覚」
“しかし、正しいものが不適切だという事態は、めずらしくなかろう。正しいけれども不適当な例を提示した結果、まちがった連想と一般化を誘発してしまったということがよくある。”
“しかし、正しいものが不適切だという事態は、めずらしくなかろう。正しいけれども不適当な例を提示した結果、まちがった連想と一般化を誘発してしまったということがよくある。”
– 佐藤信夫 「レトリック感覚」




