“鷗外は、元来目だつレトリックをもちいる表現者ではない。たとえば、おそらく彼のもっともすぐれた文章のひとつであろう「澀江抽斎』をはじめからおわりまで読んでみても、目につくようなことばのあやはほとんど見いだせないかもしれない。一般論として、ものを書く人間の後期の文章においては比較的若いころの表現よりもことばのあやが少なくなるという傾向がありそうだ。若々しい気負いと派手ごのみが、次第に枯れて渋くなる、という説明は、常識的で、たぶん正しいだろう。”
– 佐藤信夫 「レトリック感覚」

Bent my ear to hear the tune and closed my eyes to see
“鷗外は、元来目だつレトリックをもちいる表現者ではない。たとえば、おそらく彼のもっともすぐれた文章のひとつであろう「澀江抽斎』をはじめからおわりまで読んでみても、目につくようなことばのあやはほとんど見いだせないかもしれない。一般論として、ものを書く人間の後期の文章においては比較的若いころの表現よりもことばのあやが少なくなるという傾向がありそうだ。若々しい気負いと派手ごのみが、次第に枯れて渋くなる、という説明は、常識的で、たぶん正しいだろう。”
– 佐藤信夫 「レトリック感覚」