“ それは、昔、転がり込んでいた飯場でのことだ。だいたいが東北からの出稼ぎのおっさん達なのだが、これがそろいも揃って大酒飲みであった。普通の人だと一緒に飲むのが怖いような雰囲気の人達なのだが、大学を出ているのにそんな所にやってきた私は面白がられて、とにかく四六時中酒を勧められた。朝、“おはよう”を言う代わりにウィスキーの水割りを突きつけられるような環境で、でも状況が許せば私は極力飲んだ。 私を一番可愛がってくれた人で、中にNさんというおじさんがいた。シラフの時はとても優しく、またかつては腕の良い職人だったらしいのだが、この人がアル中だった。で、私が『アル中地獄』の文章を読んで真っ先に思い出したのはこのNさんのことである。 この人にはひどい被害妄想があった。昔の女房が自分を殺しにナタを持って近くをうろついていると言って、隣の部屋だった私は真夜中に見張りに立たされたことがある。本の中に脳みそが破裂してバラバラになった幻覚を見た男に周囲の人が付き合ってばらばらのピースを拾っている振りをしてやるという場面の引用があるが、見る幻覚の種類は違うものの、飯場の他のメンバーも明日は我が身と、このNさんの幻覚に付き合ってやっていた。 Nさんは故郷で家族や娘さんがもの凄く心配していて、魚やら何やらを沢山送ってくるのだが、でも帰ってきたら迷惑だとも思っているらしく、Nさん自身もそれが分かっていて、盆も正月も絶対帰ら(れ)なかった。 『人間は誰でも酔っ払うんや。』と、ある時、飲み怒りしながらNさんが叫んだ。お前だって酔っ払う、俺だって酔っ払う。なのに何故、俺だけこんな目に合うんだと言っているように聞こえて、その時私は悲しかった。 Nさんは結局、アルコールが原因と思われる被害妄想から、同じ飯場にいたOさんをフライパンで滅多打ちにし、逮捕されそのまま居なくなってしまった。 一体、私のような酒好きとNさんのような依存症の人を分けるものは何なのだろう?未だに答えは出ないが、一つだけ確実なのは私の立っている場所のすぐ隣にもの凄い深淵があって、そこに落ちる可能性は誰にでも平等にあるということだ。 この小説はその深淵に落ちかけた男の話で、だが内容に反して、読後とても力強い印象を受ける。それは小説中、作者がウイリアム・バロウズについて語っているのと同じ理由によるものだ。 “中毒者でないものが薬物に関して発言するとき、それは『モラル』の領域を踏み越えることが出来ない。バロウズが薬物について語るとき、それはもちろんモラルの気配は帯びておらず、ただただ『生きる意志』についての話になる””