時代という言葉はなるべく使いたくないが、時代がちがうのだ。こんなふうにひたすらに、まるで信仰のように、一切を自分の絵のなかに投入して生きるということが、いまはできない。なぜだろう。

時代という言葉はなるべく使いたくないが、時代がちがうのだ。こんなふうにひたすらに、まるで信仰のように、一切を自分の絵のなかに投入して生きるということが、いまはできない。なぜだろう。

いまは、見るものも知るものもあまりに多すぎる。いわゆる情報過多というやつで、若い人が絵を描くのでも、初めからあっちを見たりこっちを見たり、眼が外のほうにばかり向いていて、自分を見失ってしまう。万事世間様相手であるが、その世間のほうが大衆社会というのか、中間社会というのか、生活は平均化し、単位化し、生活の目標は小粒化して、せいぜい早くマイホームを持つことぐらいが人生の目的になってしまい、仕合わせとか幸福とかいう言葉がやたらに流行する。こんな社会に、はたして芸術など必要だろうか。民主主義は芸術の敵だと、私はよく暴言を吐いていつも怒られるが、すくなくとも、民主主義的嗜好に浸透されてしまった人間と社会からは、もはや芸術も、芸術家も生まれないのではないか、という気が私はする。

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