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ak0gare:

さっそく昨日買ったばかりの下着を身に着けてうきうきしながら姿見の前に立ったら「は?」と声が出た。
どうしてだかわからないが、見慣れているはずの自分の姿を今日に限って妙だと思った。パースが狂ったへたくそなデッサンみたいな体躯で、利き手を負傷した人の作画ですか? みたいな歪みを感じる。いつもはもっと岡崎京子の挿絵みたいな感じなのに……一体どうして……と思いながらそそくさとデニムとニットに着替えたものの、それでも違和感はぬぐえるわけではなかった。いろいろ調べてみて、もしかしたら米を食べる機会が減ったから見た目に違和があるのかなという結論にたどりつく。へんな痩せ方をするらしい。
ぼーっとしていたら昨日から藝大の卒展が始まっていたことに気づいて、打ち合わせが何もないので今日行くことにした。最低限の仕事道具だけリュックに放り込んで上野へ向かう。意外と電車が混んでいる。そして大学も、おもに学生が多かったけれど思っていたよりは混んでいた。今年から予約なしでこられるせいだろう。
油絵のための棟がこの大学でもっとも好きだ。8階までひいひい言いながら階段を昇りながら思う。入ってくる光の全てが眩しくて、藝大という場所を強くつよく感じられる気がして、学生の感覚を疑似的に味わえる。
数時間かけてありとあらゆる作品を見回った。狂人と紙一重のおもしろいことを思いつき、実行できる人がたくさんいるということがこれでもかと伝わってきた。(一人で来られてよかった)(誰かと見られればよかった)という反した感情が螺旋状に捻じれながら塔の如く伸びていく。
小説を書くことについて学べる学部は少なくとも国立大学には存在しなかったこともありわたしはずっと井の中の蛙としてずっとちやほやされて居られたが、もし、この大学に文化構想みたいな学部があったら、おそらく受験しただろう。そして、なんどとなく同級生にプライドも自負もけちょんけちょんにぶっ潰されるような経験を積んだだろう。そう思うと重いため息が漏れる。
ほとんどの作品がおそらく作り手の最大の力量を発揮しているだろうなかで、時間なのか、気力なのか、わからないけれど何らかが確実に足りなかったんじゃないのか、と邪推せざる得ない作品がほんの時々、散見された。毎年そうだ。院生の作品の方が多い。才能がある人、努力できる人、楽しめる人、頭がいい人、器用な人、筆が速い人、バズらせられる人がごまんといるこの環境の中で、ぽっきりと芯を折られたことがない人なんて、ひとりだっていないんじゃないだろうか。
小説と違って、ほとんどの場合、絵は一瞬で全貌を把握できてしまう。
上野は大好きだが、来るのには少し、よいしょ、と力を入れなければ来られないような、斤力をいつも感じる。自分にとってなんらかの劣等感を刺激される場所かつ、駅のデッキが広すぎるからかもしれない。
すべてが平等に照らし出される場所は、すこし怖い。この街は本当に、ホームレスがたくさんいる。
学食でごはん食べた後、憧れの古城に行ってフォンダンショコラと紅茶を注文した。チョーカーをつけたボブヘアの可愛いお姉さんが運んできてくれてうっとりした。仕事したあと帰宅。国立大学のそばで暮らして適度に傷つきながら散歩行く生活がしたい、とちょっと思ってしまう。とはいえ出町で家とったから春はそれができるのだ。
気がついたら夕方で、東京にいても、こういう平日をいくつも意図的に過ごさなければ、と思った。頑張って仕事詰めてるのになんで大学生より暇なのか自分でも不思議でたまらない。
アロマもしくはアセクだと思いこんでいた人がそうではなかったと事故的な格好で知ることになったが今さらどうすることもできない。秘すれば花、ができたことためしなどいちどたりともない。
1月の、清潔に冷えた空気が好きだがもうすぐ月が替わる。2月が東京はもっとも冷える。

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