town

何年ぶりかで六本木へ。歩いている人たちのかっこうがきれいに見えるのは気のせいか。なんだかみんなセレブみたいで落ち着かない町だね。その昔、10年前までこの辺で働いていた時、そんな風に感じることはなかったのは、周りを見る余裕がなかったせいだろう。犬の散歩のときと同じかっこうできらびやかな都会に足を踏み入れた自分にちょっぴり後悔。そう思わせるところがホントの都会たるゆえんなのか。武蔵小金井じゃ別に気にならないもんね、どんな格好してようと。もっと若けりゃ自分がどう見られているのか意識してしまうのも無理ない。きっとそれこそが若さなのだ。

行き帰りの電車の中でヘーゲル・大人のなりかたを読む。最近はいわゆる哲学とか精神分析だとか、思想に関する本をよく借りたり、買ったりしている。そのラインナップはこれまでと違って外堀から埋めるかたち。いままでは若気の至りというか、なんちゃって原典主義とでも言おうか、マルクスなら資本論、ヘーゲルなら精神現象学、カントなら実践理性批判だったのだけど、研究者でもないのにいきなり読んで分かるわけない、だいたいが挫折。それが仲正昌樹の教養主義復権論―本屋さんの学校2で、あーやっぱりそーなのねと納得。オレがさっぱり読めないのも当たり前だ。それが単なるワーディングの問題とは言わないが、T1ラインコードが「b8zs」とか言ってもフツーの人が理解できないのと同じ。

なので、それらを日本語に翻訳して説明してくれる本から入るのがいまの私にはちょうどよい。てか、よく考えればあたりまえだ。そういう意味で斉藤環の生き延びるためのラカンとか、仲正昌樹の今こそアーレントを読み直す、山形浩生の「意識」を語るなんて読んでいて楽しく、かつ分かりやすい。こういった日本語によるすぐれた翻訳、解説本を手に取るようになったきっかけは内田樹の日本の外国文学研究が滅びるときというブログ記事だった。「翻訳されても残るものが大事」と世界は終わらないに書いてあった気もする。”Lost in translation”じゃないのよ。

とはいえ、そういったいわば専門性の高い哲学、思想とは違って、インタビューとか雑誌記事などは原文に当たったほうがいい場合もある。昔から手元にあった片岡義男が訳した自分の生き方をさがしている人のためにには、どうもしっくりこないところがずっとあって、最近アマゾンからオリジナルGarcia: A Signpost To New Spaceを取り寄せてみた。やっぱりこれくらいだったら、そのまま英語で拾い読みするほうがいい。我が意を得たり、な言葉も見つかる。

There’s something that I listen to music for which …Neil Young has it, but Elton John doesn’t, for me. It’s well-executed and everything, it’s good music but it just has to do with how it makes me feel