昨日の夜からずいぶんと涼しい、裏の竹やぶの方からは相変わらずセミの鳴き声が聞こえてくるけれど。夜勤からの帰り道、コンビニで買い物して出てきたところで、目の前で鳥の羽ばたきを感じた瞬間、鳥のフンを右肩に受け止めた。私のかすかな記憶によれば、子どものころに一度カバンに喰らったことがあったような気もする。人生で2度目。すぐに気がついて、ウェットティッシュ(最近は脂ぎった顔面を拭くのに適したものを携帯しているのだ)で、すかさず拭き取る。肩にフンを乗せたまま電車に乗ってしまう事態はどうにか避けることができた。それにしてもスゴイ確率だ。世界全体では1日に何人くらい鳥フン被害者が出てるのだろう。
8/20朝日読売新聞朝刊に掲載されていた是枝裕和監督のコラムは、倉敷保雄アナのスポーツ報道に関するエッセイ『スポーツ中継を殺す「放送の独占」と「過剰演出」』(日刊サイゾー)と基本的には同じ。伝える人間に関するクオリティ・コントロール。少し長いけど引用。
テレビの仕事をする上で大切なのは口ではなく、目と耳であると、昔先輩に教えられたことがある。対象のそばでじっと凝視し、その声に耳を傾けること。共感は必要だが、一体化は批評性を失う。対象になりかわって伝え手が雄弁に語ってしまうと、逆に彼の内部に無口に存在していたドラマは、死ぬ。伝え手が感動を口にし、涙を流した瞬間に、テレビの前の視聴者は逆に自らの目と耳をふさぐのだ、と。これは倫理ではなく、テクニックの問題である。
さすが映画監督、表現がナイーブ。だが、最後にキツイ言葉で締めくくっている。
伝える側が優れたコンパスと目と耳を持たなければ、祭りの素晴らしさはすぐに偏狭なナショナリズムと陳腐な浪花節にその姿を変えてしまうだろう。
こういう記事が全国紙に掲載される時代になってきたんだなあ。「祭り」とはもちろんオリンピックのこと。一方でナショナリズムのどこが悪い、という意見も声高に叫ばれているような気もするが・・・。是枝監督や倉敷アナの意見が、偏狭ナショナリズムとチンプ浪花節の前に消えてしまわないよう祈ろう。