喜びは、絶対間違いのない批評的案内者ではないが、もっとも間違いの少ない案内者である。
子供の読者は、喜びに導かれる。しかし、その喜びは無差別である。たとえば彼は、美的喜びと、勉学や夢想の喜びを区別できない。青春期には、われわれは異なった種類の喜びがあることを実感する。そのうちのあるものは、同時に楽しむことができないが、それらをはっきりさせるためには、他の喜びの助けを必要とする。食物上の趣味の問題であろうと、文学上の趣味の問題であろうと、青年は信じることのできる権威をもった顧問を捜し求める。彼は自分の顧問の推薦するものを食べ、読む、そしてそこに不可避的に、自分をいささか欺かねばならない場合が生じる。彼は、実際に楽しむよりもすこしよけいに、オリーブや『戦争と平和』を楽しむふりをせねばならない。二十歳から四十歳の間に、われわれは自分が何者であるかを発見する過程にある。その過程には、われわれが義務としてそこから脱出せねばならない偶然的な制約と、それを侵害すれば必らず罰を受ける必然的なわれわれの本性上の制約との間の区別を学ぶことを含んでいる。失敗しないで、これを学び得る人間はほとんどいない。また、われわれが許されているよりも、もうすこし普遍的な人間になろうとしないで、これを学び得る人間はほとんどいないのである。
W.H.オーデン 「染物屋の手」
中桐雅夫訳