ジロ見ながら書いてる。ブレシアってペップがバルサのあとに行ってた町じゃん。
日本語で読むということは、亡びるときを読んだあと、じゃあ何読めばいいんだろねーというキモチに応えてくれるカタログ本。そのなかに幸田文を絶賛するのを読んで流れる (新潮文庫)で、失われてしまったであろう江戸、東京を堪能させていただいた。私はかろうじてこの作品の世界のもつ雰囲気を理解できるが、わたしたちの子どもたち世代には詳細な註解なしにはもはや解読不能だろう。すでに亡びの世界なのだ。ちなみに、図書館で借りたこの本には、どうしてここに?というところに鉛筆で傍線がたくさん引かれていたが、わたしにとってはどれも的外れなのがかえって印象に残った。「雪丸が」というフレーズだけに傍線ってどういうことなのだろ・・・、けっきょくいちいち消しゴムで消去しながら読んだ。図書館の本に書き込むってどういう神経してんだよ、まったく。
新訂 福翁自伝 (岩波文庫)は、最高に面白い。福澤諭吉は明治時代の内田裕也なのね、生きざまがロックンロール。そもそも何で手に取ったかは忘れたけど、昭和のエートスを読んでだったけかな、内田樹のブログで読んだ記事に引用されていたからかも。「エートス」は、もう図書館に返却しちゃったので確認できないが、カミュをきちんと読んでみたくなったことを覚えておこう。それと、やはり同じ本で紹介されてた明治人物閑話 (中公文庫)をいま読解中。
ハワーズ・エンドは、歳とって再読してはじめて分かった味わい。グレイトフル・デッドとか、ザ・バンド、ゲーンズブールとかに通じる感覚とでも言おうか。そういう意味じゃ幸田文と同じで、いまどきの子どもにゃ到底分からんだろ。ちょうど100年前に発表されたらしい。
この流れで次はジェーン・オースティンを読んでみたくなってる。いちおう図書館で予約したけど、近所の古本屋に高慢と偏見 (河出文庫)が半額で出てるのを発見、買っちまったほうがよいのか悩み中。それにしても、どうしてオレはこう、後ろ向きなのかね。音楽にしろ、文学にしろ。ルイス・マンフォードが歴史の都市明日の都市 (1969年)で、過去に学ぶ助走がなけりゃ未来への飛躍もないよ、って書いてるのが心の支え。